みんみんゼミ

夏合宿 報告 グループ発表「民族衣装」

9月11日(ゼミ合宿2日目)に行われたグループ発表「民族衣装」の司会を務めさせていただきました、三津澤です。

前々回の発表では民族衣装の刺繍に注目し、更に今回の発表ではその刺繍の中でも「豊穣の女神」に焦点を当て、日本の文化と比較していきながら考察をしました。

発表者側は、豊穣の女神は日本では土偶、ドイツでは刺繍として表され、それは日本でもドイツでも昔男は外に出て仕事(狩猟など)をし、女性は家を守っていたからであると主張しました。

 この主張に対し、以下のような意見が挙げられました。

@【意見】豊作といえば子供を産むというイメージから、女性がモチーフになったのではないか。
 >【発表者】主張の中の「女性は家を守る」という文章に、そのニュアンスを含んでいます。

A【意見】日本の土偶は「多産」を願うために作られた説が有力であり、刺繍もまた多産を祈るために作られたのではないか。
 >【発表者】確かにそうだが、やはりイメージとして「男=外」「女=内」という関係が強いのではないか。

B【意見】女性をかたどったというより、「豊穣の女神」そのものをかたどったのではないか。
 >【発表者】Aの回答でもあるように、ここではやはり、女神としてではなく、女性としてそれをかたどったと考えられる。

C【質問】何故にほんでは土偶として、ドイツでは刺繍としてそれが表現されたのか。
 >【発表者】日本は土に恵まれていた、またドイツでは当時女性は家の中で作業することが多かったためである。

以上の意見・質問が挙げられ、最終的にフロアー側の勝利となりました。

以上で、グループ発表「民族衣装」の報告とさせて頂きます。

合宿報告 個人発表「映画」

 今年の軽井沢夏合宿、個人発表「映画」の司会を務めさせて頂きました。三津澤です。

 第二次世界大戦の終戦から今年の8月5日で74年が経ったことに関連し、今発表では戦争がもたらした映画の危機を踏まえつつ、『怪人博士マブゼ』について考察をしていきました。
(『怪人博士マブゼ』(原題:Das Testament des Dr.Mabuse)は、1993年フリッツ・ラングによって作られた映画で、『ドクトル・マブゼ』と『M』2作の続編としての作品です。)

 発表者は、フリッツ・ラング作『怪人博士マブゼ』がナチスによって上映禁止になった理由が、「マブゼが催眠術を用いて人々を騙すという描写が、ヒトラーの行っていた恐怖政治を暗示し、また、国民を騙し支配しているという類似点の発覚から、ヒトラーへの反発を恐れたためではないか」と主張しました。

 そしてこの主張に対し、以下のような意見が挙げられました。

 @【意見】催眠術という描写が類似していたためではなく、マブゼというキャラクターの思考がナチスのものと似ていたため、上映禁止にされたのではないか。
 >【発表者】催眠術は「犯罪意識(思考)」というマブゼの行ったものの一つであったため、主張のニュアンスにはそれが含まれています。

 A【意見】この映画はドイツのみならず、日本でも上映禁止になったという。そのため、単にスリラー要素が観客に過度な不安を与える可能性があったから上映禁止になったのではないか。
 >【発表者】日本で上映禁止になった理由については、ヒトラーが関係しているか分からないが、スリラー要素については、観客も承知の上で観ていたと考える(『怪人博士マブゼ』が続編であるため)。

 B【意見】2作目であるこの映画が、その理由で上映禁止にされたのであれば、1作目から禁止されるはずなのではないか。
 >【発表者】初期の作品は、「作り物」つまり娯楽の1つとして観られていたと考える。また、1931年の『M』では、政治的内容であれ「M」というタイトルから「Murder」が連想されるため、改名もされたそう。

 C【意見】一味と警官隊の激しい打ち合いや、一味の多くが射殺される描写、狂ってしまったバウムなど、様々な恐怖が人々に不安を与えると考えられたため、上映禁止になったのではないか。
 >【発表者】以前の発表で出てきた映画「カリガリ博士」でも扱ったように、1931年、32年に公開されたスリラーに続いて作られたため、人々には好まれていたのではないか。
 >【意見】人々が射殺する・されるシーンについて、人々は抵抗はなかったのか。
 >【発表者】『M』の主人公は実在した殺人鬼をモデルにしていた。そのため、この映画での「人々が一度に殺される」という描写に、人々は慣れていたのではないか。
 >【意見】それでは、その「人々を射殺する」という描写から、戦争を連想させる可能性があったのではないか。
 >【発表者】当時人々は、ナチスが人々を虐殺していたということを知らなかったため、戦争を連想していたとは考えにくい。

 D【意見】ヒトラーを思わせる要素というより、人々に犯罪を促すような内容が原因なのではないか。
 >【発表者】「犯罪を促す」という危機より、ナチスに関する内容の方が危ないと見られていたため、その原因はそこまで大きく関係していないのではないか。

 このようにディベートが進められ、結果、発表者の勝利となりました。

 また、芸術も良いものが多いが、モチーフが極端なものが多かったり、この映画についてもそうだが、狂人と非狂人の差とはなんなのか、その区別はどうつくのか、といったお言葉を先生からいただきました。

 以上で、2019年度夏合宿、個人発表「映画」の報告とさせていただきます。

OB、OGの皆様こんにちは。
ゼミ合宿で個人テーマ「合唱」の司会を担当いたしました中田でございます。
ディベート内容の報告をさせていただきます。

今までの「合唱」の発表では、おもにドイツの合唱曲について議論してきましたが、今回の発表では日本の合唱に重点を移し、その問題点の解決策をドイツの合唱団と比較して議論を行いました。
発表者の主張は、「日本の合唱団は現在、合唱人口の減少・高齢化、レベルの二極化といった問題に直面している。これらの問題を解決するためには、ドイツの合唱団のように一つ一つの団体が明確な目標を持つとともに、より多くの人の目に留まるような活動をするべきである。」というものでした。

原稿読み上げ後、新しい質問はフロア側から出ませんでしたので、BBSに沿って意見を出し合いました。

フロア側から、「コンクールは合唱をしている人々にとってもちろん重要なことだが、そこに重点を置きすぎているせいで趣味が多様化していく中で新たに合唱を始めたいと思わないのではないかと考えた。趣味なのにそこまで本気になれないなどコンクールに重点を置いてしまうということがレベルの二極化にも関わっていると思う。また、全日本合唱連盟のウェブサイトをみたところ、お母さんコーラスやこどもコーラスフェスティバルなどハッキリと年齢ごとに分かれていた。これでは考察に同じ世代が合唱に割く時間を失うため活動ができなくなるとあるが合唱連盟自体がそもそも年齢ごとに合唱をするような風潮を促しているように感じた。そのため私は合唱連盟のコンクールに対する考えや合唱の世代に関する考えを改めることがまずは必要なのではないかと思う。」という意見が出ました。発表者側は反論として、「「趣味なのにそこまで本気になれないなどコンクールに重点を置いてしまうということがレベルの二極化にも関わっている」というのと1つの原因だが、一番最初に改めることではない。合唱団の中で目標をまず定めないと、合唱団内でコンクール派、それよりも気軽に参加できるフェス派に分かれてしまう。そのため、まずはどういう指針で活動していくか決めていくことが重要だ」としました。
その反論を聞いたフロア側から、「その反論は合唱団での考えに合わなかったら辞めることを進める考えではないか」という質問が出ましたが、「それは合唱団・個人お互いの為に、合唱団の考えに合わなかったら辞めることが最善である」と答えました。
次に質問で、「老人が集った合唱団には若い人が入りにくい。主張では幅広い世代の人が入り混じった合唱団を作るべきとあったが、それでは明確な目標設定だけでは足りないだろう」というものには、「元々そういう世代の人が集まっているというのはある意味狙い(目標)があるもので、無理やり改変するのはおかしい。また、今回の主張は一般合唱団のことだ」と返答しました。

安達先生から、「まず問題がどこなのか分かりにくい。合唱団は需要と供給の成り立ちなので、全体論として数の減少を憂ているのか分からない。スポーツで例えると野球では高校生は高校生、社会人は社会人チームなど世代で分かれるのに…合唱団ではごちゃ混ぜにするのか。また、熱意の差はあってもコンクールに行きたくない人はいないだろう。ヨーロッパはオペラ座があり、そこで専属の合唱団もあるのでプロの受け皿がある。しかし日本では少なく、日本では楽しんでやろうという考えをもつ合唱団が多い。」というコメントをいただきました。

次に、「先日、TBS系で放送された特別音楽番組の「音楽の日」ではアーティストの長渕剛と全国の様々な合唱団がコラボレーションを行い、生中継で一緒に「乾杯」を合唱していた。多くの合唱団が参加し、歌っている合唱団の映像が変わるたびに、合唱団の正式名称や地域などもテロップで表示されていたため、全国放送の特別番組でも合唱が採用されるなど、広く露出し活動しているのではないかと思う。
日本の合唱団は狭いコミュニティと言及されているが、
ドイツの有名なウィーン少年合唱団なども(プロかアマチュアかの前提や必要だが) 性別、年齢 などの制限があり、コミュニティとしては狭いのではないだろうか。」というフロア側の主張には、
まず安達先生から「ウィーン少年合唱団はボーイソプラノ限定なので、狭いコミュニティになっても仕方ない」というコメントをいただきました。そして発表者側からは「TVと生の合唱は全然違う。またTVに映るのは広いコミュニティといえるのだろうか。」という反論がありました。
フロア側からはその反論を聞いて、「興味がない人は公演にわざわざ行かない。取り上げたように、「音楽の日」のようなTV特集を知って興味を持つ。」と意見を出しました。

加えてフロア側からは、「主張には、"一つ一つの団体が明確な目標を持つとともに、より多くの人の目に留まるような活動をするべきである。"と書かれてるが、明確な目標を持つ事は大切だと思うがそれにより、より一層音楽の硬直化が進んでいくのではないだろうか。
歌うことの楽しさというのは、どの年代にも知られているとカラオケの文化などから感じられる。
合唱の幅を広げるためにはまず、入口のレベルを下げることが一番ではないかと考える。」という意見も出ました。
その反論には、「アマチュアは硬直化しにくい。プロも含め新人の作曲家に曲を作成してもらい、初演を行うこともしている。このように昔の曲だけではなく、新しい曲にもチャレンジしている。また、そもそも入り口のレベルは一緒である。魅力に気付いた人が続けているためだ。」としました。

評決の結果、2:2で引き分けでしたので、司会の判断により発表者側の勝利となりました。
以上でゼミ合宿個人テーマ「合唱」の報告とさせていただきます。

合宿 ゼミ報告 個人テーマ「絵画」 1もとはし時計09/12 00:28電話3PC Android返信

OB・OGの皆さま、こんばんは。
9月10日ゼミ合宿1日目、個人テーマ「絵画」の報告をさせていただきます。

今回の発表では、「これからの発表では、グスタフ・クリムトの作品「接吻」や「ユディトT」について触れたが、今回はクリムトのパートナーである『エミーリエ・フレーゲ』について触れていきたいと思う」ということを目的とし、「クリムトが描いた『エミーリエ・フレーゲの肖像』をエミーリエ本人は気に入らず、競売にかけてしまった。その理由は、「28歳の女性らしさ、艶やかさ」ではなく、「自立したエミーリエという女性」という内面を鋭く描き出したため、エミーリエはこの肖像画が気に入らなかったのではないかと考える」と主張し、ディベートをおこないました。

まずフロア側からの意見としては、「私はどちらかというと、その理由の先にある「クリムトによって理想化された彼女の姿」が彼女のイメージする自身の姿(エミーリエ)とかけ離れていため、気に入らなかったのではないかと思いました。肖像を見る限り、頭身がやけに高い部分からも、そのようなことが考えられました」という意見が出ました。
これに対して発表者側は、「等身が本人よりもモデル体型というのは、絵画だと実際の等身大よりも良く描く。これは絵画的に必要だった誇張だと思う。黄金様式を使わなかったという点から考えて理想化はせず、青色でクールな女性という現実の様子を描いている」と反論しました。他のフロア側からの意見としては、「エミーリエ・フレーゲの肖像は、彼女のことをよく知るクリムトでこそ表現出来る、彼女を的確に表現した作品であると思いました。しかし、クリムトは官能的な女性を描くことに長けており、誰よりも近くで一緒にいたエミーリエはそのような絵を描かれたモデルの女性達に嫉妬のような感情も持っていたのではないでしょうか。だからこそ彼女はクリムトに、もっと官能的な表現で、女性として描いてもらうことを期待していたのだと思います。他の女性たちのように愛されていると感じなかったことが、彼女がこの作品を気に入らなかった原因だと考えます」という意見が出ました。
これに対し発表者側は、「クリムトがエミーリエの内面を深く理解していたからこそ、黄金様式ではなく、このような絵におさめた。この意見は主張と同じことを違う目線から述べている」と反論しました。

また他のフロア側からの意見としては、「主張には クリムトが描いた《エミーリエ・フレーゲの肖像》をエミーリエ本人は気に入らず、競売にかけてしまった理由は、「28歳の大人の女性らしさ、艶やかさ」ではなく、「自立したエミーリエという女性」という内面を鋭く描き出したため、エミーリエはこの自画像が気に入らなかったのではないかと考える。とあります。固定概念の押し付けではありませんが、28歳という年齢は10代から成人へと移り変わる瞬間をとうに過ぎ、20代半ばを経験し、もうもなく30代を迎えるという、いわゆるアラサーに当てはまる年齢であるので、大人の女性らしさの中には自立、といった項目も当てはまると思います。またエミーリエが経営者として活躍していたことからも自立した女性というクリムトの解釈は、間違っていないと思うため、競売にかけられた理由としては考えにくいと思います」という意見も出ました。
これに対して発表者側は、「1900年前半の女性が経営者として働くのは珍しかったため、男性の仕事(金銭)に依存しているというのが強かった。なので女性が仕事をして生きていくというのはまだこの時代は珍しかったと考えている」と反論しました。
この反論に対してフロア側は、「当時の女性たちが受け入れられなかったというのはこの反論を聞く限り分かるが、エミーリエは経営者として自立していたのでその点から考えるとこの反論は当てはまらないのではないか」と再反論しました。

別のフロア側からの意見としては、「私は《エミーリエ・フレーゲの肖像》をエミーリエ自身が気に入らなかったのは内面を鋭く描き出したためではないと考えます。他の女性とは違う、強い絆で結ばれていた2人だからこそ描き出せた内面を描き出した作品はエミーリエにとっては特別なものなのではと思いました。内面を鋭く描き出した という場面ではなく、特別感が前面に押し出されているからこそ、ほかの社交界の婦人たちのような関係には足を踏み入れられない事実を痛感させ気に入らなかったのではないかと思います」という意見が出ました。
これに対して発表者側は、「エミーリエとクリムトは夏に避暑地に行った際、クリムトは愛人からの手紙をエミーリエに見られると嫉妬されるという理由から朝早く起きて手紙を受け取っていたという話があるくらい、エミーリエは嫉妬する女性であったので自立した女性を描いたという点がやはり気に入らなかったのではないかと考える。かっこいい女性を描きすぎたというのが売られた原因」と反論しました。

安達先生からは、「9ページの写真からみてこれをモデルとして描かれた絵があのかっこいい絵だったらエミーリエも怒ると思う。この肖像画の服は日本の着物をモデルにしている。そもそもこの肖像画において服は関係なく、色気がない。それは顔の表情からも見てとれる。たとえ最初は嬉しかったとしても女として見られていないと感じてしまう。この肖像画は愛される女性として描かれていない。自立しているにも関わらず、さらに自立した女性を今更描かれてもエミーリエは嬉しくないと思う。不自然に手も足も長く、華やかさの欠片もない。これでは実際のエミーリエの方が華やかで女性らしい。この点がクリムトの失敗である」というお言葉を頂きました。

評決の結果、発表者側の勝利となりました。

以上でゼミ合宿1日目、個人テーマ「絵画」の報告を終わります。

OB,OGの皆様、こんにちは。
第15回ゼミグループテーマ「民族衣装」の司会を担当いたしました中田と申します。
この度は報告が遅くなってしまい、大変申し訳ございません。

グループテーマ「民族衣装」では、前回地理的なものに注目し、東ヨーロッパと西ヨーロッパの民族衣装の違いについて議論しましたが、今回は身分の服装の違いに注目し議論を行いました。

今回の主張は、「中世の貴族や女性は、イタリア風のファッションや金の装飾品など、権威を表したり自身の魅力を上げるために見た目重視の服装をしているが、庶民、特に商人の男達は裕福であったにもかかわらず実用性を重視した服装となっている。その理由は、1日の大部分を仕事にあて、着飾る必要がなかったからではないか」でした。

BBSと関連して、フロアから「商人の男達にとってどんなに裕福だとしても「お金」を持っているということがステータスであり、貴族と交流する機会もそこまでないと思うので装飾品や服装によって魅力をあげるためにお金を使うという概念がなく、手元に少しでも多くの「お金」を残しておきたかったのではないか」という反論が出ました。発表者側は、「たしかにがめついイメージがあるが、その時代にお金を貯めていてもしょうがないのでは。商人はいった先々で個人のお土産を買うことができ、金のチェーンなどのアクセサリーで裕福アピールをするのでは。」という回答でした。

安達先生から、「日常とハレノヒは服装を分けるのでは。その為、日常で着飾る民族はいないのでは。衣装を見ればデザインなどで民族や位がわかるようになっている。
ドイツでは地元で作られるものは限られて、輸入物が多い。貴族と平民の交流はあったが、働き方は異なってくる。貴族の裕福は永遠だが、平民は揺らぎやすい。その為金を稼ぐか結婚でのしあがる。服装は特に身分関係と結ばれる。」というコメントをいただきました。

他にも、「商人達が仕事の影響で着飾る必要がなかったというよりも、
商人は裕福とはいえ庶民階級であるため、庶民階級の男性がそもそも着飾る文化自体がなかったためではないか、と思いました。(商人に限らず庶民階級の男性=着飾らない。といった認識が強かったのではないか)」とフロア側からの反論には、「安達先生のコメントにもあったように、日常とハレノヒで衣装を分けているとしたら、日常服はより実用性を求めるが、ハレノヒは綺麗目のものにするなど、着飾る意識はあるはずだ」と回答しました。

安達先生からは、「ハレノヒ、結婚式は1回ずつ注文し、ドレスを特注するのがステータスである。ファッションは女性のもので、男性は固定されたものである。着飾るというか地位を表すものである。」とコメントをいただきました。

議論の結果、今回はフロア側の勝利となりました。
以上が第15回ゼミ報告グループテーマ「民族衣装」です。

第14回 ゼミ報告 企画 1もとはし時計07/25 14:54電話3PC Android返信
第14回 ゼミ報告 個人テーマ「建築」 1もとはし時計07/25 13:47電話3PC Android返信
第13回ゼミ報告「労働」 1ミツザワ時計07/24 21:01電話3PC PC返信

第13回ゼミ報告「労働」

今回の発表では、労働時間について法律の面から研究し、考察をしていくことを目的とし、「ドイツでは「労働時間法」において時間外労働を基本的に認められていない。もし何かしらの理由により時間外労働が発生した場合でも最長労働時間を超えて働くことがないように規制されており、違反した場合には罰金や過料が課せられ、その結果労働時間は着実に減少して来ている。しかし、日本においてはドイツの「労働時間法」に相当する36協定でも、一か月当たり45時間の時間外労働を認めている上に、さらに臨時の場合などといった形で例外を認めているため、実質的な労働時間は減少することなく、ドイツとの格差は開くばかりとなってしまっている。従って日本でもドイツと同じように時間外労働を基本的に認めず、最長労働時間の規定が順守されるよう法律を改めるべきである。」と主張しました。

発表者側からの補足として、「休憩時間」=勤務中の休憩時間のこと、「休息時間」=次の勤務までの休息のこと(翌日の勤務開始までの時間のこと)との説明がありました。

BBSへの意見・質問として、
「日本での時間外労働が確かに法律でも認められてしまっている部分はあるが、法律で規制してもやはり時間外労働は(減るかもしれないが)無くならないのではないか。」
「時間外労働をしないとやっていけない仕事であれば、その法律に従うこと自体難しいのではないかと思いました。」
「残業の最長時間を法律で定めるだけでは、ただこの持ち帰り残業を助長してしまうだけで、根本的な解決にはならないのではないでしょうか。まずは少しでも残業を減らせるように仕事量の見直しをし、人手不足であればその対策を優先して行うべきなのではないかと考えました。」
「一人当たりの業務量の調整をクラウドソーシングなどを利用して減らすことから行うべきだと思います。」
「主張にある最長労働時間の規定に準拠できなかった企業への対応策・罰金罰則などはどのようなものをお考えですか。」
「1人に与えられる仕事量を減らさない限り、就業時間(残業も含め)を取り締まるるだけではサービス残業をする方が増えるのではないかと考えます。」
「まとめに "日本でもドイツと同じように時間外労働を基本的に認めず、最長労働時間の規定が順守されるよう法律を改めるべきである。" とありますが、時間外労働時間の基本的禁止は、労働者の精神衛生や身体的負担の軽減には良い効果があると思いますが労働時間が減るとその分、給与も減ると思いますので生活を続けていく上での保障などが充実していないと、生活費のために副業を始める人が増えたり、と労働者の負担には結果 変わらないのではないでしょうか。」
などが挙げられました。

評決の結果、発表者側の勝利となりました。

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