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ゼミ大発表会報告 個人テーマ「合唱」

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1おかもと???v 2019/02/09 00:36 ?d?b3PC PC

OB・OGの皆様こんにちは。
2018年度ゼミ大発表会の報告をさせていただきます。
ゼミ大発表会 個人テーマ「合唱」の司会を担当いたしました、岡本と申します。今回、個人テーマ「合唱」は“合唱の世俗化”を副題として展開していきました。

今回の発表では、前期第11回ゼミ個人発表で19世紀に宗教音楽の世俗化について主にレクイエムを扱って議論した内容をさらに掘り下げました。
前回は、レクイエムが教会での演奏に縛られなかった理由をキリスト教が世俗化していた事以上に楽曲を作る過程・経緯や作曲者の遍歴が一般的な市民にも受け入れや筋かったからであると主張しました。今回は、その宗教音楽の世俗化の過程で作曲された作品の中に交響曲に組み込まれた合唱があることに注目し、以前の発表を裏付けると共にその発展について考察していきました。
そして発表者は、先にも述べた教会での演奏に縛られなかったレクイエムや、夏の大発表会で主張した、都市改造の影響によって作曲された市民社会の繁栄を連想させる大規模な形式の作品からも分かる通り、合唱が一般的な市民に受け入れられるようになってきたのは確かである。しかしそれと共に「器楽<声楽」の原則が一転し、交響曲に合唱を加える、という器楽ありきの作品も生まれ、その中で合唱はいかにクライマックスで演奏されようとも構成的には主役とは言えず脇役となってしまっている。それでもそのような構成となっている「歓喜の歌」は、同じようにその衣鉢を受け継いで作られたはずのベルリオーズの「レリオ」とは違い、今日誰もが知っている作品となっている。
この二作品の違いはどこにあるのかを考えると、「歓喜の歌」が当時市民の間でも有名であり教科書にも取り上げられていたシラーであるのに対し、「レリオ」は個人的な失恋体験や嫉妬体験を、「幻想交響曲」で扱った管弦楽だけでは飽き足らずに合唱さえも用いて表現し尽そうというものであり、「個」にとどまっているという所にあるといえる。この違いから、第九の「歓喜の歌」はその合唱の内容が一般市民の身近にあったからこそ、より受け入れやすく、歌い継がれていく作品となったのではないかと主張しました。

まずBBSに書き込まれた質疑応答の確認を行いました。
フロア側から「「個」にとどまっている」の「個」とは作者個人という意味、詳しくいうと「歓喜の歌」の内容が民衆受けであったのに対して、レリオの方は個人の体験談という意味なのか。という質問が出ました。それに対して発表者側はその解釈と同じであると述べたうえで、普遍的な人類愛を謳い上げる《第九》とは異なり、《レリオ》の場合は、ベルリオーズの個人的な失恋体験や嫉妬体験を描いており、悪く言えば自己満足と言えると説明しました。

次にBBSに書き込まれた意見への回答に移りました。
“第九はシラーの歌詞が出来た後に曲が付け加えられたものであり、歌詞に音楽をつけるという事は合唱をしやすい曲を作ったのではないか、その為歌いやすく身近に感じ、現在も伝わっているのではないかと感じた。”という意見に対して発表者側は、“シラーの「歓喜の歌」は実際に合唱すると難しく、例えばソプラノの最高音は高いシとなっている。また、この楽曲も器楽のうちの一パートが合唱曲なだけなので歌いやすくて広まったとは考えにくい。”と回答しました。
また、“この「歓喜の歌」の歌詞に神という者が関わっているからこそ神聖さが出ており、失恋、嫉妬体験が関わっている「レリオ」に比べ、市民に受け入れられ、残っているのではないか。”という意見に対しては“「歓喜の歌」には神々・創造主などの歌詞がありキリスト的だが一般市民の全員がキリスト教という訳ではないので神聖さがあり受け入れやすいが一番の理由とはいえない。”と回答しました。
“考察に「器楽<声楽」の原則が一転し、交響曲に合唱を加える、という器楽有木の作品も生まれ、その中で合唱はいかにクライマックスで演奏されようとも構成的には主役とは言えず脇役となってしまっている。とあるが、オーケストラだけでも成立する交響曲などに敢えて合唱を取り入れるという選択は、むしろ合唱の人気や魅力を作曲家も理解していて、脇役というよりもオーケストラを相乗効果に合唱をするというのは主役に近いのではないか。”という意見に対して発表者は“「歓喜の歌」が主役に見える点についてはその通りだと思う。しかし構成的には脇役なのは小説などに例えて言うと1人の登場人物を軸として回っていた物語の最後に人気者が登場してくる感じであり、その人気者が「歓喜の歌」である。”と説明しました。

一通りの回答を聴いた後、更なる意見や質疑応答が上がりました。
“「第九」が教科書に載っていたとのことだが、そこに至るまでの過程はどのようなものだったのか”という質問に対しては“もともとシラーが有名でドイツ詩の手本であったため教科書に載っていた”と回答しました。
“合唱だと歌いにくい「歓喜の歌」は身近に感じて良いなと思ったとしても、歌いにくく、歌えなかったら歌われないのではないか。シラーが書いたからこそ有名なのではないか。”という意見には“「歓喜の歌」に限っては内容というよりも自由讃歌に触れていたためなので関係ないと考える”と答え、“歌よりも歌詞が重要だったのではないか”に対しては“よく触れていたからこそ身近に感じられたと考える”と回答しました。

安達先生からは、シラーとレリオとでは甲乙つけがたい。知名度的にはシラーの方が勝っていて伝わっていたというのがフロア側の反論なのかと確認されたうえで“「歓喜の歌」はシラーが若いころに書いた詩であまりよくないと評する批評家もいる。しかし第九は詩と音楽が一体化している為高揚感のある曲となっている。「レリオ」はかなり死を感じるストーリーであり、イレギュラーの詰め合わせではあるが芸術的完成度が高い。しかし言葉で表現できないものを音楽で表したのに言葉をつけてしまったのが欠点となってしまっている。第九の詞入りになると交響曲としてはダメになるがそこを逆手にとって詩でそれについて触れている所がすごい所である。なので、知名度というより音楽的力が大きいと考えられる。”というご指摘を頂きました。また、ドイツで受け入れられた文化的理由として、「歓喜の歌」は祝祭に向いている為好感度が高く、さらに詩のなかにはW,Mといった唇に負担のかかる発音が文頭に来ている為発音に敏感なドイツ人の心を強くゆすったともいえるとの意見も頂きました

評決の結果、発表者側の勝利となりました。
以上で大発表会個人テーマ「合唱」の報告を終わります。

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