OB・OGの皆様、こんにちは。12月8日第24回ゼミ個人テーマ「絵画」の報告をさせていただきます。今回のゼミでは、象徴主義の作品が20世紀になって(再)評価を多く受けたその理由について考察を行うことを目的とし、多くの象徴主義作品が20世紀から(再)評価を受けたのは、ある程度の歴史的時間を経なければ、象徴主義の意義が客観的に認識できなかったためであると主張をし、ディベートをおこないました。まずフロア側から「主張では20世紀から象徴主義が再評価されたとあるが、まとめでは19世紀後半〜20世紀に印象主義の意義について理解が深まったため注目され評価されたとある。これはまとめが誤りで、主張したいのは象徴主義の方でいいのか?」という質問に対して主張者側からは、「ご指摘通り「印象派→象徴主義」である」と答えました。また、フロア側からの「主張で(再)評価と(再)の部分を強調されているが、初めに評価された時と再評価された時とで象徴主義の見方はどこまで変わったのか?」という質問に対しては、主張者側は「19世紀に象徴主義運動により評価され、現代に評価された(例えば美術館に展示されたなど)為、(再)評価としている。」と答えました。フロア側からの「また初めの評価の時期とその時の作品、加えて再評価された作品で具体的なものがあれば教えてほしい」という要望に対して主張者側は、「今回私の勉強不足によりお答えすることが難しい」と答えました。またフロア側から他の質問としては、「まとめの部分において、当時は良い部分のみ認識していた為、印象派という陽の場面を描いた作品が評価をうけていたが負の部分を実感したことで象徴主義の理解が深まり評価されたとあるが、再評価ではなく新たに評価されたという事ただろうか?」という問いに対して主張者側は、「ほぼ質問通りである。評価の形は作品によって様々で、一部元々評価された作品もある(モローなど)為、再評価となるものもあるが、多くの作品が新しく評価されたものだと思う。」と答えました。フロア側からの「19世紀は印象派という明るい絵画が台頭していたが、後半になるにつれて昼の精神(印象派)に対して幻滅を抱く感性が存在していた。彼らは印象派のように理想の世界、しかも眼に映じたままの光を愛する嗜好をまったく持たなかった。なぜなら、彼らは現実世界に幸福を見いだせなかった為である。幻滅の中に、そしてそれと同じだけ絶望に深く根差して生きていた。とあるが、ここでいう"彼ら"の対象はどこまでを指すのか。前述にもあった小説家などの芸術家から一般市民までも範囲に入るのだろうか。」という質問に対しては、主張者側は、「質問通り芸術家から一般市民まで含めるそうだ。だが、文献などの証拠などは小説家など立場ある方しか抜粋されていないので確実にどう広まっていったのかは確約したことを言えない。」と答えました。他の質問としては、フロア側から「4ページのフランスの小説家・詩人のヴィリエ・ド・リラダンは、実体験からきた現実の女性への幻滅と永遠の理想像の追及をテーマとしているとともに、第三共和制下の物質主義や化学万能主義に対する痛烈な批判を行っている。このようなときに象徴主義は評価を得たのである。とあるが永遠の理想ということは、現実を描いている象徴主義ではなく、印象派なのではないか?」という問いに対して、主張者側は、「今までの発表では、印象→理想 象徴→現実と思っていたが、研究していくうちにそれが逆で、象徴は理想的なものを追い求めているってことを知り、フランスの小説家・詩人のヴィリエ・ド・リラダンが言っている通り、象徴主義で正しい」と答えました。意見としてフロア側からの「調べたところ象徴主義の始まりは19世紀後半からとあった。これは丁度概要3にもある「産業革命などでマイナスな部分が露見してきたため」の時期と重なる。疫病などで負の部分を実感した為象徴主義が受け入れられたというよりも、人々がこの負の部分を実感した為に、今日象徴主義と言われる絵画が描かれ始めたのではないかと思う。」という意見に対して、主張者側は、「歴史的に見るとモローやオリュドン・ルドンなどが初期の方に描いているため象徴主義が始まったのは19世紀初期から中頃と考える。評価をされ始めたのが19世紀後半であり、中頃から後半が画家達は後期印象派派、レアリスムの影響で評価を受けるのが難しかったが象徴主義運動が始まり、評価を受けやすくなり後半に盛り上がった。」と反論しました。安達先生からは、「絵は目で見るのではなく、心でみる。光・湿度などでも絵は変わる。」、「今の感覚だけで昔の感覚は、体験出来ないため昔に少しでも寄り添う」、「単に主義や派で終わらせるのでは無く、そこからストーリーが始まる。そのため主義や派で終わらせてしまうのは悲しい。歴や他の文化との結び付きに気づいて欲しい。その1枚1枚に異なった背景がある」、「印象派といっても色々ある」というお言葉を頂きました。評決の結果、フロア側の勝利となりました。企画では、映画「パフューム」のキーワードである「執着」をテーマにディベートをしました。安達先生からは「パリのところが忠実に再現されている」、「とても現実的とは思えないが惹き込まれる。神話的なものをドイツ人は好む(最後は香水を自らにかけて八つ裂きにされるシーンなど)」、「ある種の理屈っぽさと神話性はドイツ人が得意としている」、「主人公は生まれた時から鼻・匂いという香りに振り回されており、本当にそれで生きていると言えるのだろうか。全てが香りだからぶれない人生とも言えるが。」、「主人公には香りがない。ということは、人として透明である」、「主人公の能力は自身を助けることが出来ず、また究極の香りは人を惑わすだけで誰も幸せには出来なかった」、「あるものの存在と非存在が主人公という一人の人間に含まれている」、「ポイントは香りの保存」、「極めることへの執着もある」等のお言葉を頂きました。今回の企画では評決は取っておりません。以上で第24回ゼミ報告を終わります。
OB・OGの皆様、こんにちは。
12月8日第24回ゼミ個人テーマ「絵画」の報告をさせていただきます。
今回のゼミでは、象徴主義の作品が20世紀になって(再)評価を多く受けたその理由について考察を行うことを目的とし、多くの象徴主義作品が20世紀から(再)評価を受けたのは、ある程度の歴史的時間を経なければ、象徴主義の意義が客観的に認識できなかったためであると主張をし、ディベートをおこないました。
まずフロア側から「主張では20世紀から象徴主義が再評価されたとあるが、まとめでは19世紀後半〜20世紀に印象主義の意義について理解が深まったため注目され評価されたとある。これはまとめが誤りで、主張したいのは象徴主義の方でいいのか?」という質問に対して主張者側からは、「ご指摘通り「印象派→象徴主義」である」と答えました。
また、フロア側からの「主張で(再)評価と(再)の部分を強調されているが、初めに評価された時と再評価された時とで象徴主義の見方はどこまで変わったのか?」という質問に対しては、主張者側は「19世紀に象徴主義運動により評価され、現代に評価された(例えば美術館に展示されたなど)為、(再)評価としている。」と答えました。
フロア側からの「また初めの評価の時期とその時の作品、加えて再評価された作品で具体的なものがあれば教えてほしい」という要望に対して主張者側は、「今回私の勉強不足によりお答えすることが難しい」と答えました。
またフロア側から他の質問としては、「まとめの部分において、当時は良い部分のみ認識していた為、印象派という陽の場面を描いた作品が評価をうけていたが負の部分を実感したことで象徴主義の理解が深まり評価されたとあるが、再評価ではなく新たに評価されたという事ただろうか?」という問いに対して主張者側は、「ほぼ質問通りである。評価の形は作品によって様々で、一部元々評価された作品もある(モローなど)為、再評価となるものもあるが、多くの作品が新しく評価されたものだと思う。」と答えました。
フロア側からの「19世紀は印象派という明るい絵画が台頭していたが、後半になるにつれて昼の精神(印象派)に対して幻滅を抱く感性が存在していた。彼らは印象派のように理想の世界、しかも眼に映じたままの光を愛する嗜好をまったく持たなかった。なぜなら、彼らは現実世界に幸福を見いだせなかった為である。幻滅の中に、そしてそれと同じだけ絶望に深く根差して生きていた。
とあるが、ここでいう"彼ら"の対象はどこまでを指すのか。前述にもあった小説家などの芸術家から一般市民までも範囲に入るのだろうか。」という質問に対しては、主張者側は、「質問通り芸術家から一般市民まで含めるそうだ。だが、文献などの証拠などは小説家など立場ある方しか抜粋されていないので確実にどう広まっていったのかは確約したことを言えない。」と答えました。
他の質問としては、フロア側から「4ページのフランスの小説家・詩人のヴィリエ・ド・リラダンは、実体験からきた現実の女性への幻滅と永遠の理想像の追及をテーマとしているとともに、第三共和制下の物質主義や化学万能主義に対する痛烈な批判を行っている。このようなときに象徴主義は評価を得たのである。とあるが永遠の理想ということは、現実を描いている象徴主義ではなく、印象派なのではないか?」という問いに対して、主張者側は、「今までの発表では、印象→理想 象徴→現実と思っていたが、研究していくうちにそれが逆で、象徴は理想的なものを追い求めているってことを知り、フランスの小説家・詩人のヴィリエ・ド・リラダンが言っている通り、象徴主義で正しい」と答えました。
意見としてフロア側からの「調べたところ象徴主義の始まりは19世紀後半からとあった。これは丁度概要3にもある「産業革命などでマイナスな部分が露見してきたため」の時期と重なる。疫病などで負の部分を実感した為象徴主義が受け入れられたというよりも、人々がこの負の部分を実感した為に、今日象徴主義と言われる絵画が描かれ始めたのではないかと思う。」という意見に対して、主張者側は、「歴史的に見るとモローやオリュドン・ルドンなどが初期の方に描いているため象徴主義が始まったのは19世紀初期から中頃と考える。評価をされ始めたのが19世紀後半であり、中頃から後半が画家達は後期印象派派、レアリスムの影響で評価を受けるのが難しかったが象徴主義運動が始まり、評価を受けやすくなり後半に盛り上がった。」と反論しました。
安達先生からは、「絵は目で見るのではなく、心でみる。光・湿度などでも絵は変わる。」、「今の感覚だけで昔の感覚は、体験出来ないため昔に少しでも寄り添う」、「単に主義や派で終わらせるのでは無く、そこからストーリーが始まる。そのため主義や派で終わらせてしまうのは悲しい。歴や他の文化との結び付きに気づいて欲しい。その1枚1枚に異なった背景がある」、「印象派といっても色々ある」というお言葉を頂きました。
評決の結果、フロア側の勝利となりました。
企画では、映画「パフューム」のキーワードである「執着」をテーマにディベートをしました。
安達先生からは「パリのところが忠実に再現されている」、「とても現実的とは思えないが惹き込まれる。神話的なものをドイツ人は好む(最後は香水を自らにかけて八つ裂きにされるシーンなど)」、「ある種の理屈っぽさと神話性はドイツ人が得意としている」、「主人公は生まれた時から鼻・匂いという香りに振り回されており、本当にそれで生きていると言えるのだろうか。全てが香りだからぶれない人生とも言えるが。」、「主人公には香りがない。ということは、人として透明である」、「主人公の能力は自身を助けることが出来ず、また究極の香りは人を惑わすだけで誰も幸せには出来なかった」、「あるものの存在と非存在が主人公という一人の人間に含まれている」、「ポイントは香りの保存」、「極めることへの執着もある」等のお言葉を頂きました。
今回の企画では評決は取っておりません。
以上で第24回ゼミ報告を終わります。